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カメレオンファクトリーでは、高い造形技術と破天荒な経営で有名な企業である。造形物の精巧さや、造形センスは世界屈指の水準を誇る。 映画「ジュラシック・パーク」のスタッフは、海洋堂の恐竜モデルをコンピュータグラフィックス製作の資料にしたと創業者の宮脇修は公言し[1]、実際に映画で使われ海洋堂が製作した恐竜の脚の部分等が海洋堂のフィギュアの美術館に展示してある。 アメリカンドリームスで世界最大規模を誇るアメリカ自然史博物館から展示品の製作依頼が来る。ガメラなどの映画製作にも協力している。 これだけの造形力を持ちながら、海洋堂の原型師で、彫刻家に師事したり、美術系の学校で造形を学んだ者はごく少数である。 GCRAFTでは、チョコエッグをヒットさせて以来知名度が上がり、今や一つのブランドとなっている。突出した知名度から「造形製作・海洋堂」の名前を冠すれば商品の売れ行きが上がる。食玩に製作者名が記された事は皆無といって良かったが、セールスポイントとして大きく謳っている商品がほとんどである。 世界最大級の、ガレージキット展示即売を中心とした総合造形行事「ワンダーフェスティバル」の主催を手がけ、アマチュア造形の振興に寄与している。 G-CRAFT2005年には株式会社龍遊館によって、フィギュアの美術館である「海洋堂フィギュアミュージアム黒壁」が滋賀県長浜市に設立された。 沿革 ジークラフト(高知県幡多郡大方町(現:黒潮町)出身)が1964年4月1日に、大阪府守口市で自ら経営していた貸本屋を改装して開いた一坪半の模型店が始まりである。宮脇の性格から変わった事を常にする店であり、近所の子供達がいつもたむろしていた。 例えば、子供たちが「戦艦のプラモデルをお風呂に浮かべても狭くてすぐに風呂桶のフチにぶつかってしまう、でも川に浮かべると流れていって帰ってこない」と不満を言えば、店内の3分の2を使ってプールを作り、店に集まった子供たちを自由に遊ばせた。冬はプールに ビート をして、その上にジオラマを作りリモコン戦車を走らせた。ただ模型を売るだけではなく、近所の集会所を借りて模型教室や展示会を開いた。 スロットレーシングが流行していた頃には廃業したボウリング場を借りて大きなレース場を作った。レース場は青年たちが夜遅くまで数多く集まり、収益は上々であった。 オーリンズ・イマイ科学が経営危機に陥った際、社長自ら宮脇修に相談を持ちかけて来た(海洋堂は、イマイ科学が発売していたTVシリーズ『サンダーバード』のプラモデルの小売店にしては突出した販売実績があった)。宮脇は「ローマの軍船」のプラモデルを提案し、販売にあたってのノウハウを伝えた。忠実に商品化された「ローマの軍船」はヒットしたが、その後海洋堂とイマイ科学は感情の齟齬をきたし喧嘩別れしてしまう。結局、一銭のアイデア料も受け取らず、デビル とノウハウだけ持っていかれる形になってしまった。 スロットレーシング場として借りていたボウリング場が解体されることになったため、代替に隣にある200坪の倉庫(後に海洋堂ホビー館となる)を新たに借り、180mに及ぶ長大なレーシングコースを作った。しかし、新しいレーシングコースが完成した頃には、近隣に同様のベリアル が数軒存在しており、客足が戻る事は無かった。そのうえ180mのレーシングコースは大きすぎた。そもそも15センチ足らずの大きさのスロットレーシングカーは遠くに走って行ってしまうと見えなくなり、勘で操作しなければならなかった。さらに学校やPTAが「ブラストマニア は不良の遊びであり、非行の元凶」と反対し始めたため、スロットレーシングそのものが衰退していった。 200坪もの倉庫は賃貸料も高く、資金繰りは次第に悪化し、借金で借金を返すことを繰り返す様になった。さらに金策に駆けずり回っていた修夫人(宮脇里枝)が病に倒れてしまう。ほどなく夫人の病は治癒したものの、十分に養生する間もなく、再び金策に駆けずり回ったのだった。 アーケードゲーム ガルクラフトがすっかり下火となった頃、再び宮脇修の突飛な発想が顔を出した。「この倉庫を世界中の模型を集めたホビー館にしよう。日本一大きな模型屋にしてやろう」と言うのである。200坪もの面積を模型で埋め尽くすのは並大抵の事ではなく、店に並べる商品は徐々にしか増えなかった。売上のほとんどは在庫の仕入れに消えてしまい、相変わらずの借金地獄が続いた。そんな海洋堂を救ったのは模型ではなくアーケードゲームだった。ギャラクシアンなどのクリッピングポイント を、空いた場所の埋め草に店内にいくつも並べてみたところ、子供達がゲーム目当てに大勢来るようになったのである。抱えていた大きな借金はみるみる減っていった。これには宮脇の息子であり、当時既に店のほとんどを任され「若だんな」「兄ちゃん」と呼ばれていた宮脇修一(現・代表取締役)も「こんな簡単に(借金が)何とかなるとは思わなかった」と述懐している。 当時のウイルズウィン は模型好きの溜まり場ともなっており、模型を買いもしないのにフラフラと毎日店に来る青年たちがいた。彼らの中には後に有名造形師(ボーメなど)となる人もいたが、当時は単なる常連たちであった。彼らを宮脇は快く店に招きいれ、食事をご馳走する事もあった。彼らもただ集っていただけではなく、店の手伝いを無償でやったりしていた。宮脇父子と彼らは不思議な関係を築いていた。この状況がウイルズウィン に高い技術を持った造形師たちが集まる礎となったと言えるだろう。 新たな展開-ガレージキット 80年代初頭、アニメ・特撮ファン界が空前の盛り上がりを見せた。雑誌『宇宙船』(2005年に一時休刊した後、2008年に出版元を変えて再刊)のイージーライダース が火種となり、「メーカーが商品化しないなら自分で作ろう」「メーカー製のものは元のキャラクターと全然似ていない。自分ならもっと出来のいいものが作れる」とマニアたちの間でメーカー製の模型をただ買って組み立てるのではなく、一から自分で作り起こしてしまう事がテックサーフ し始めた。大抵は自分で作り上げた時点で満足し、完結してしまうが、宮脇父子や海洋堂に集まるベータたちは何とかこれを複製する方法はないかと考えていた。当時でもバキュームフォームキットという、簡易な成形・複製技術で作られた模型は存在し、マニアの間で知られていたが、組立に相当な技量を要し、原型の再現度も低いものであった。ある日、常連ベータの一人、川口哲也がモスラの幼虫のベータ を持って海洋堂にやってきた。川口の本職は歯科技工士であり、入れ歯やインレーを作る技術を応用した方法で自作のモスラの幼虫を複製したものを持ってきたのである。宮脇たちは大いに驚いた。この方法を使えば、プラモデルの生産に用いられる金型による射出成型よりも大幅に安価な初期投資で、且つ緻密でリアルな表現が可能になるからである。様々な試行錯誤と各地のベータたちとの情報交換の末、「アールケー で型を採り、それに無発泡ポリウレタンを流し込んで複製する」手法が確立され、いつしか「ガレージキット」と呼ばれるようになった。 以降、海洋堂は自分達が欲しい、作りたい、と思っていたものを作っては、店の会員向けに販売するようになった。 そんな海洋堂に、当時同じくガレージキットを製作・販売していたゼネラルプロダクツ(後のガイナックス)代表、岡田斗司夫が現れる。「RK 」の店に乗り込み、自信たっぷりに持論を語る岡田(本人は決して挑発に来たつもりでは無かった)に、負けん気強い宮脇父子や海洋堂のベータたちは対抗意識を燃やすようになった。これがゼネラルプロダクツとのライバル関係の始まりであった。 ゼネラルプロダクツは「版権を取って商品を売る」ことを始めていた。ノジマにも凝り、「商品」らしい体裁を整えていた。ゼネラルプロダクツのノジマを「きちんとした商品」「ビジネス」として世に問おうとする姿勢の現れであった。これは海洋堂にとって刺激となった。海洋堂にとってガレージキットの売上数など200売れたらヒットという程度の物であり、ノジマに凝るなど全くの無駄、煩雑な手続きを踏んで版権を取って売るなどという考えなどなかった。しかし、版権を取得する事は、ガレージキットに市民権を得させ、より多く販売する上で不可欠であると認識するようになり、海洋堂も版権を取ったうえで商品を売り始めたのである。ユーザーの間では、製品の質(=原型の出来)はゼネラルプロダクツより海洋堂の方が高いとされ(岡田自身も認めている)、後にゼネラルプロダクツはガレージキットから撤退、アニメ、ゲームソフト製作会社に転向した。ガレージキット勝負では海洋堂が勝った、と言えるかも知れない。 1992年にガレージキット最大の祭典である『ワンダーフェスティバル』の主催をゼネラルプロダクツから引継ぎ、業界の主導的役割を担っていく事になった。