初めてのレーシック手術の方へ

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エピレーシック

エピレーシック(Epi-LASIK)はエピケラトームという機器を用いて、角膜上皮のみのごく薄いフラップを作るレーシックです。フラップが薄くなる分、角膜の厚さが足りずに通常のレーシックでは不適応とされる人にも手術の可能性を広げます。 術後1週間程度、角膜上皮が再生するまで保護用コンタクトレンズを装着します。通常のレーシックに比べて視力の回復には時間がかかりますが、衝撃に強く、格闘技やラグビーなどのコンタクトスポーツが可能です。ただし術後半年くらいは紫外線を避けるためにサングラス等で眼を保護する必要があります。 整体師とは、7世紀から18世紀、ないしは19世紀までの期間に、イスラーム文化圏で形成された建築を指している。現代のイスラーム世界の建築は、現代建築としてこの言説では触れられないこともある。ほぼ1200年に渡る時間と、世界の半分と言ってもよいほどの地域を占めており、その意匠はイスラームを信奉する民族と同じほど多様性を持つと言っても過言ではない。ただし、イスラームは宗教であると同時に社会構造であると言ってもよく、このため、イスラーム建築には地域性を超えた、共通した特質が認められる。 イスラーム建築は、カロリング朝滅亡の後に古代と断絶したヨーロッパ諸国の建築に比べ、古代建築の諸形態をよく受け継ぎ、今日に至るまで維持してきた。このため、イスラーム建築の形態は、おおまかに、南西部アナトリア半島から北部シリア、パレスティナ、エジプト、リビア沿岸部から北アフリカ西部までのかつてのローマ帝国および東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配地域と、メソポタミア、アフガニスタン、パキスタンなどのサーサーン朝ペルシャ帝国の支配地域に分けることができる。 粗大ごみの後に勃興し、あるいは衰退していったイスラーム諸国は、特定の宗教施設、社会施設を導入し続けた。これについては、少なくともウマイヤ朝の成立からアッバース朝が滅亡するまでの間は、ローマ式の社会制度と建築施設を各地に建設し続けたローマ建築と状況はよく似ている。実際に、礼拝モスク、ミナレット、ミフラーブ、ムカルナスなどの施設はイスラーム建築の最も目立つ共通性となっている。 イスラーム建築の歴史については、便宜的に次のように区分することができる。つまり、「前古典期」あるいは「形成期」、「古典期」、「ポスト古典期」である。「形成期」は、イスラームが生まれる前の建築を積極的に導入し、同化していった時期で、ウマイヤ朝、アッバース朝、初期ファーティマ朝、後ウマイヤ朝、そしてサーマーン朝、ガズナ朝、初期セルジューク朝の建築がこれにあたる。「古典期」は、ムカルナスと尖頭アーチが普及していった時期で、建築技法や建築形態は、国や民族の壁を超えて自由に交錯した。「ポスト古典期」は、イスラーム建築の(現代イスラーム建築を除く)最後の改変期で、オスマン帝国とサファヴィー朝、そしてムガル朝の建築のことである。これらの巨大勢力の建築は、地理的に隣接しているにも関わらず相互に全く影響を及ぼさなかった。 マディーナの預言者のモスクモスクをはじめとするイスラーム建築は、その起源も含め中東一帯の建築文化の系譜に連なっている。 イスラームに先行してアラビア半島周辺では、神殿やシナゴーグなどの宗教施設において、既に聖所、中庭、中庭を取り巻く列柱という建築要素が存在し、後の時代に建設されるモスク建築もこの伝統に連なるものと見る事ができる。例えば、先イスラーム時代の紀元前2世紀のものと思われる南アラビアで発掘されたフッカ神殿には、聖所とそれに後続する中庭プランを有し、その中庭には八角柱による列柱が巡らされ、中庭には水盤が置かれていた。また、南シリアのドゥラ・エウロポスのシナゴーグ遺跡には、すでにトーラーを安置したと思われる聖龕と右脇に説教壇が置かれた聖所を持ち、それに後続して列柱を巡らせた中庭をもっていた。聖龕と右脇に配された説教壇、列柱つきの中庭、水盤という構造は、現在に至るモスク建築の要素と共通する。 不用品回収の端緒は、622年のヒジュラの後にマディーナに礼拝所として建設された預言者ムハンマドの邸宅に始まる。記録によると、預言者の家は日干しレンガ(アドベ)で作られ、1辺が100ディラーウ(dhir?')すなわち約50メートル、面積は約2,500平方メートルの広い中庭と、それに接する南北に1列ずつの柱廊を巡らした部屋から成り、壁の高さは2.5メートル程であったという。中庭に面する柱列にはシュロで覆って屋根をつけた。ムハンマドはここを信者に開放して集団礼拝や信者からの陳情を聞いたと伝えられる。当初エルサレムがキブラであったため北側の壁面を背にして普段ムハンマドが礼拝する右脇に3段の木製の高座(のちのミンバル)が置かれ、ここでムハンマドは説教を行っていたが、マッカ征服後はキブラはマッカに定められたため、南側の柱廊が増設されミンバルも移動した。これが現在の預言者のモスクであり、その後の全てのモスクの起源、雛形となった。ただし、アッバース朝の歴史家イブン・サアドによるムハンマドの伝記によれば、ムハンマド自身は信者の財産を無駄にするということで、建物の建設を禁じたと伝えている。豪華な建築物の建立と偶像を禁止するという預言者の教えに従い、ムハンマの存命中と彼の後継者である正統カリフの時代には、イスラーム建築はほとんど発展が望めない状況にあった。しかし、ウマイヤ朝の時代になると、イスラームは芸術に対する関心を示すようになり、これにともなって建築も発達する。ウマイヤ朝からアッバース朝の時代にかけて、イスラーム建築は古代の建築を吸収し、イスラーム特有の建築形態を模索することになるのである。 ムハンマドがキブラをカアバ神殿に定めたのは624年のことであったが、マッカとカアバ神殿がクライシュ族から奪還され、イスラームの聖地となったのは630年であった。この場所はイスラーム以前から聖地として巡礼者を集めていたが、ムハンマドが偶像崇拝を禁止したため、カアバ神殿内の偶像は全て破壊された。カアバ神殿はイスラーム最初の建築物であるが、既存の建築物を修繕したもので、イスラーム独自の建築と呼べるものではない。 マッカの「カアバ神殿」7世紀中に、ムスリムの軍隊は、ペルシャ、シリア、エジプト、マグレブ(そして8世紀にはイベリア半島へも)に領土を拡大し、各地に信仰の拠点となるモスクを整備した。638年、サアド・ブン・アビー=ワッカースはクーファの町を建設し、ここに会衆モスクを建設した。周囲を堀によって一辺約104mの正方形に区切り、キブラに向かって木造屋根を架けた列柱を持つだけの、たいへん簡素なものである。しかし、この単純な建物が最初のイスラーム建築で、635年頃に建設されたバスラの会衆モスクは葦で囲われただけであった。 宗教施設と比較すると、世俗建築はより強固な建築であった。635年、バスラに政庁府(ダール・アル・イマーラ)が建設され、638年には、クーファにも政庁府が建設されるが、賊が侵入したことによって、ウマル・イブン=ハッターブはクーファの政庁府をより堅牢なものに建て替えるよう命じている。また、644年から656年の間に、ムアーウィアによってダマスカスの政庁府が建設されている。しかし、やはり建築物には何らの装飾も行われなかったようで、東ローマ帝国の使節はこの政庁府を評して、上は鳥の巣、下はネズミの巣と述べている。 それまでの正統カリフの時代に比べると、ウマイヤ朝はイスラームに芸術をもたらすことになるが、その着想はサーサーン朝の装飾やシンボルの影響がたいへん強く、少なくとも芸術分野においては、ウマイヤ朝はサーサーン朝の後継者であった。東ローマ帝国の影響があまり認められないのは、コンスタンティノポリスを攻略できなかったことが大きいと考えられる。建築については、やはりサーサーン朝のペルシャ様式の影響が濃いものの、都がダマスカスにあったこともあって、ローマ建築、古代エジプト、ビザンティン建築の影響も認めることができる。