初めてのレーシック手術の方へ

■Infomation

レーシックの種類

医療機器の発達に伴いレーシック(LASIK)にも様々なバリエーションが派生しています。いずれもフラップを作り、エキシマレーザーを照射するという方法は共通ですが、より高度な医療機器を駆使することでさらに効果を高め、通常のレーシックでは不適応とされる人にも視力矯正を可能とします。 先物取引の源泉が完全にパリのものとなる17世紀末期には、フランスに近代的なアカデミーが創設された。そこでは絵画・彫刻・建築の教育が行われ、卒業すれば宮廷芸術家として社会的地位が約束されたが、一方で建築の形態を決定する手法はアカデミーによってコード化されることになり、国家機構の中に組み込まれた。ジュール・アルドゥアン=マンサールは、こうしたアカデミー出身の典型的な人物である。ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂は、内部空間の構成を完全にゴシック建築のものとされたが、1階が臣民の席であるのに対し、2階は国王席で、国王の住居と同じレベルで直結しているなど、地位を空間の階層として明確に分離している。彼はまた、ルイ14世にふさわしい記念碑的建築物として、廃兵院にドーム・デザンヴァリットを設計した。この平面プランはブランテやミケランジェロなどが16世紀に好んだ典型的な集中式礼拝堂だが、その内部空間はドームに支配されており、垂直性をかなり強調したものとなっている。このドームは、エッフェル塔ができるまで、パリのランドマークとなった。 18世紀初頭になると、神聖ローマ帝国、特にオーストリアでは後期バロック建築が最盛期を迎え、後期バロック・ロココ建築が下火になったフランスに代わって、これを牽引するはたらきを担った。 FXにオスマン帝国を退けたハプスブルク家はフランスのルイ14世様式に匹敵しうる国家建築の構築を目指しており、その中心にあって指導的な役割をはたしたのがヨハン・フィッシャー・フォン・エルラッハであった。彼は様々な歴史的・世界的建築物とローマ建築特有の記念性を総合して国家様式を具現しようと試みた。彼の主要な空間構成は楕円である。彼の傑作のひとつであるウィーンのカールスキルヘや王立図書館は、中心にこの楕円形平面を置き、これに様々な歴史建築物を引用することによって独創的な建築を創造した。ことに王立図書館はゴットフリート・ライプニッツも関心を寄せている。 より古典的なバロック建築を好んだマンサールとは反対に、ローマ・バロック特有の意匠を好んだのはルイ・ル・ヴォーである。彼は豪放な細部のデザンや凹凸を全面に押し出した形をコレージュ・デ・キャトル・ナシオンにおいて表現したが、これはマンサールの抑制されたデザインとは対照的である。彼は実用的な平面を画き、特に邸宅建築にその力量を発揮した。ヴォー・ル・ヴィコント邸館は宰相ニコラ・フーケが建設したものだが、後に若きルイ14世が彼を失脚させてまで我がものとした。実際に、これは17世紀フランスの宮殿建築の嚆矢となる建築である。左右に突出部や、中央にドームを乗せた楕円形の広間など、ローマのベルベリーニ宮に着想を得たプランを採用しているが、庭園とそれを望む広間は後にヴェルサイユ宮殿で試みられる形式の原型であり、以後の宮殿建築に大きな影響を与えた。 パリが最も偉大な芸術家としてベルニーニを呼び、ルーヴル宮殿の東ファサードの設計を依頼したのは1664年である。王室建築物総監であったジャン=バティスト・コルベールはベルニーニをパリに召還し、およそ3つのプランの変更を経て、1665年に工事を開始させた。しかし、ローマ・バロックの意匠はフランス人の好むところではなく、翌年に工事は中断され、1667年にはル・ヴォー、クロード・ペローを含む建設委員会が結成され、最終案が合議された。ペローによるところが大きいとされるこのファサードは、ベルニーニ案からのモティーフをいくつか拝借してはいるが、彼のデザインとは全く印象が異なる。その雄大な造形はフランス古典主義建築の最も完成された姿とされ、その容姿はしばしばルイ14世様式と評された。 FXの建築的アプローチはフランスのそれとは全く異なり、むしろベルニーニやボッロミーニの手法を想起させる。これは「オーストリアのヴェルサイユ」と呼ばれるシェーンブルン宮殿の景観において明確である。ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントのシュヴァルツェンベルク宮殿とシュタルヘムベルク・シェーンブルク宮殿の意匠も、同様にローマの初期バロック建築の影響が強い。しかし、彼はベルヴェデーレ宮殿において、イタリア的でもフランス的でもない様々な工夫を凝らしており、オーストリアの後期バロック建築の到達点であると言える。彼らの意匠(特に都市型宮殿の構成)はボヘミアに広がり、プラハはその最も活動的な拠点となった。 オーストリア以外の地域では、フランスやイタリアの影響も受け、また、分割された政治機構のためにより複雑な様相を呈している。「バーバリアン・バロック」とも呼ばれるドイツ語圏のバロックは、しばしば装飾過多であることで知られている。内部空間は柱の垂直線以外は全て曲線・曲面で構成されていることが多いが、これはオーストリア西部でウォール・ピラー方式と呼ばれる構造方法が採用されたことによる。ゴシック建築に見られるように、構造体としての控壁は建物の外側に配置されるのが一般的だが、ウォール・ピラー方式は建物内部に控え壁を突出させることによって複雑な内部空間を形成した。この意匠とグァリーノ・グァリーニの意匠を融合したのがバルタザール・ノイマンやドミニク・ツィンマーマンである。彼らの複雑な空間の中に装飾が取り入れられ、中央ヨーロッパのバロック建築は劇的な空間を作り上げていくことになった。 ミュンヘンにあるザンクト・ヨハン・ネムポク教会堂を設計したエーギット・クィリン、コスマス・ダミアンのアーザム兄弟は、彼らの手法を取り入れて、絵画、彫刻、建築が一体となったきらびやかな空間を作り出した。ミュンヘンには、このほかにドイツにロココ建築を導入したフランス人建築家フランソワ・ド・キュヴィリエの設計した宮廷劇場がある。 ドイツにはこのほかに後期バロック建築の中心地が点在している。ザクセン選帝侯アウグスト強健王によって、マテウス・ダニエル・ペペルマンが建設したツヴィンガー宮殿のあるドレスデン、バルタザール・ノイマンの設計による司教宮殿があるヴュルツブルクなどである。 イギリスでは、ルネサンス建築がイニゴ・ジョーンズによってもたらされ、続くクリストファー・レンによる一連の建築活動によって古典主義建築が根ざすことになる。建築の多様性はどの国の後期バロックをも特徴的づける資質ではあるが、イギリスのバロック建築ほどその様式の記述に苦しむものはなく、実際に17世紀後期から18世紀前期にいたるイギリスの古典主義建築をバロック建築と呼ぶことは、様式論としてはあまり受け入れられていない。 17世紀のイギリス建築は、清教徒革命以前以後ではっきりと区分することができる(革命以前はイニゴ・ジョーンズによる建築活動であるが、これについては北方ルネサンス建築を参照)。革命後にイギリス建築界の主導的立場に立ったのはクリストファー・レンである。彼は天文学者・数学者であり、建築的教養はイタリア滞在中にベルニーニに会ったにすぎないが、1666年のロンドン大火によって市街地が破壊されると、すぐにその再建計画を委託された。彼はここで51もの教会堂を建設しているが、その全てが彼の手によるものではない。彼が考案した教会堂は、それまでに存在した様々なプランを組み合わせたものではあるが、独創性も見られる。セント・ポール大聖堂は、当初完全な集中式バロック建築として計画されたが、様々な妥協の末に平面的にはバシリカ形式となった。しかし、ドーム部分の厳格な古典主義は、それまでのイギリス建築には全く存在しておらず、レンの革新性を物語っている。