初めてのレーシック手術の方へ
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レーシックの適応
レーシック(LASIK)は非常に安全性の高い視力矯正手術ですが、残念ながら適応のない(レーシックの受けられない)人も中にはいます。ちなみに日本眼科学会のガイドラインではレーシックの適応を以下の通りに定めています。
適応
@ 20歳以上
A 屈折値が安定しているすべての屈折異常(遠視、近視、乱視)
B 矯正量の範囲が近視10D、遠視6Dまで、かつ角膜の厚さが十分であること
実施が禁忌とされるもの
@ 活動性の外眼部炎症
A 円錐角膜
B 白内障(核性近視)
C ぶどう膜炎や強膜炎に伴う活動性の内眼部炎症
D 重症の糖尿病や重症のアトピー性疾患など、創傷治癒に影響を与える可能性の高い全身性あるいは免疫不全疾患
E 妊娠中または授乳中の女性
実施に慎重を要すもの
@ 向精神薬(プチロフェノン系向精神薬など)の服用者
A 緑内障
B 全身性の結合組織疾患
C 乾性角結膜炎
D 角膜ヘルペスの既往
E 屈折矯正手術の既往
為替として16世紀の北イタリアの建築活動、特にアンドレーア・パッラーディオの建築を含んでいない。建築史家によっては、16世紀以降をひと括りにマニエリスムとする場合もある。
サント・スピリト教会内部空間ルネサンス最初の建築家として名を挙げられるのは、フィリッポ・ブルネレスキである。ただし、彼のデザインは古典主義建築と呼べるものではなく、その着想は11世紀から12世紀にかけてのトスカーナ地方固有のロマネスク建築にある。彼が最初に設計した捨子保育院(オスペダーレ・デッリ・イノチェンティの細いアーチを連続させるファサードは、フィレンツェのサン・ミニアト・アル・モンテ聖堂ないしはサン・ジョヴァンニ洗礼堂のモティーフであり、また、後に設計を行ったサント・スピリト聖堂、サン・ロレンツォ聖堂の内部空間についても、やはりフィレンツェにあるサンティ・アポストリ聖堂と比較すれば類似性は明らかで、全体の性格はロマネスク建築のものと言える。
フィレンツェがルネサンスを生んだ理由はいくつか挙げられるが、建築に関わるものとして、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂、サンタ・クローチェ聖堂にみられるような現実的かつ明快なトスカーナ固有の美意識、才能のある人間への賞賛、古代ローマの芸術・文学の遺産が数多く残っていたことなどを挙げることができる。
外貨預金は、忘れられていた古代を復興する文化運動であり、建築の面ではそれまで主流であったゴシック建築の技法を否定し、古代ローマの建築を再生した、というのが一般的な見解である。これはおおむね正しいが、ルネサンスの建築家たちは一般に思われているほど、古代ローマの建築を正確に写し取ったわけではない。むしろ、その建築活動はルネサンスの理想を投影した独創的な側面が強いが、ルネサンスの建築家は古代の人びとが考案した建築のあるべき姿を復興したと考えていた。
それにも関わらず彼がルネサンス最初の建築家とされるのは、それまでの建築・設計が石工たちの伝統と経験、想像力を頼りに行われていたのに対し、ブルネレスキはローマ建築の構造を研究し、これに数学的比例を組み合わせるなど、学芸的なアプローチを採たことにある。捨子保育院ではローマ建築のモティーフをペディメントや柱に取り入れ、サント・スピリト聖堂では、身廊の高さ・幅、側廊の高さ・幅など、内部空間を比例関係によって構成し、ルネサンス建築特有の静的な秩序を表現した。その名声を世に知らしめたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム構造では、ゴシック建築の尖頭ヴォールトを応用、ローマ建築の建設方法を応用して、足場を設けない二重ドーム構造を提唱し、ドームの建設を可能にした。
彼のこうした建築理念は、ルネサンス最初の完全な有心型教会堂、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂に現れている。この建築は1437年に工事が中断したため未完となったが、その有心性や厚い壁をえぐった壁龕、八角形プランを覆うドームは、ロマネスク建築との関連性を完全に断っており、ローマ建築に対する指向を伺わせる。
ウィトルウィウスの著作から、古典主義建築に必須の要素であるオーダーの比例理論を抽出し、これにはじめて論理的な説明を加えたのは、レオン・バッティスタ・アルベルティである。
IPOはあらゆる芸術と文学の教養を修めた人物であるが、それまで、彼のような学者が建築に対して何らかの意味を見いだそうとすることはまれであった。しかし、アルベルティは1443年頃からウィトルウィウスの『建築について』に注目し、これに倣って『建築論』をまとめ、建築の本質が哲学、数学、考古学にあるとしてその重要性を提示した。彼が特に注目したのは人体比例と建築比例を同一のものとする文章で、あらゆる比例関係の基本が人体の形にあるという概念は、ルネサンス建築の根本原理となった。『建築論』は1452年までには一応完成したが、アルベルティは死に至るまで手を入れており、印刷されるのはようやく1485年になってからである。
アルベルティは著作だけでなく建築の設計をも行い、三次元的に自身の理論を証明した。パッツォ・ルチェッライは、正面にローマのコロッセオの構成を用い、付柱(ピラスター)によって鈍重な壁面を分節しているが、これはオーダーを全面的に使用した最初の試みである。同時期に、リミニのサント・フランチェスコ聖堂をテンピオ・マラテスティアーナに改装する設計では、正面にローマのコンスタンティヌス記念門とリミニのアウグストゥス記念門の構成を組み合わせ、古典主義による教会堂正面の計画に道を開いた。
しかし、アルベルティは盲目的にローマ建築を模倣したわけではなく、このような構成を用いて全体の調和を一致させることに美の本質があると考えた。彼の最後の作品となったサンタンドレア聖堂は、1470年頃に設計された最も影響力の大きな作品である。伝統的なラテン十字型平面を持つこの聖堂は、堂々としたトンネル・ヴォールトを持つ身廊を建造するためにブルネレスキが設計したバシリカ形式を採用しておらず、このため内部はより一層古典的な形態になった。正面は、テンピオ・マラテスティアーナと同じくローマの凱旋門をモティーフにしているが、その比例と構成は内部の身廊を囲む壁面にも繰り返されており、建築全体を一定の調和によって統一している。
株の設計は、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオに継承されており、パラッツォ・メディチ・リッカルディの中庭には捨子保育院のファサードの影響が見られる。アルベルティの実作は直接模倣されたものがわずかだったため、その影響をたどるのは難しいが、彼の人間性と建築論は絶大な影響を与えることになった。
教皇ピウス2世はアベルティの影響を受け、アルベルティの助手であるベルナルド・ロッセリーノを雇い、ピエンツァのパラッツォ・ピッコロミーニの建設において、自身も建築の設計に参画した。全体としては、どちらかというとゴシック的関心の強い、曖昧な古典主義だが、パラッツォ・ピッコロミーニ正面におけるアルベルティの影響は歴然である。 ウルビーノで、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがピエロ・デラ・フランチェスカ、ルチアーノ・ラウラーナ、そしてフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニに設計させたパラッツォ・ドゥカーレは、建設に際してアルベルティの助言もあったと思われる。